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ジプシーのとき プロット 旧ユーゴスラビア 01月01日 1900 台灣上映
この胸のときめき プロット アメリカ 09月30日 2000 台灣上映
評決のとき プロット アメリカ 12月28日 1996 台灣上映
泣きたいときのクスリ プロット 日本 01月10日 2009 台灣上映
ときめき プロット 日本 06月30日 1973 台灣上映
ときめきメモリアル プロット 日本 08月09日 1997 台灣上映
至福のとき評論(2)
しょうじきなところ、そこにドラマを想像するなら、かのじょが身も心も男に略取される悲劇である。日本映画がもっとも好きなやつだ。
そんな想像をすることが、低俗であるなら、日本の映画監督たちは、ほとんど低俗になってしまう。
かれらは、年端もいかない女性が、男たちの欲望に翻弄され搾取される話を、むしろ好んで描くからだ。
じっさい低俗なのだろう──と個人的に思っている。
つまり、この映画、チャンイーモウの至福のときが見たこともないほど純粋に見えるのは、わたしたちが、いやというほど、日本の退屈なAbused Womanの方法論を見せられてきたからに他ならない。
断言してもいいが、日本映画の鬼才(エアクオート)たちに、盲目の貧しい少女という材料を与えたら、かれらは、ぜったいに少女をいじめる──はずである。
鬼才とは、そういう単細胞を意味する、代替語とみていい。
ひるがえって、この映画がどんなに新鮮に見えたことだろう。
少女をとりまく大人たちは、ひとりとして、ペドフィリアの気配がない。気配がないというより、その病気そのものを知らない。
おとなたちが雁首そろえて、大仰な偽装工作をうち、なんとか少女に生きるしるべを見い出してもらおうとする。──のである。
人のゆがみではなく、人の健全にペーソスを見いだす──その初動の違いと、演出によってもたらされた結果は、すさまじい。あの子を探してや初恋のきた道やこの映画には、わたしたちが忘れていた純粋があった。
どれだけ女性を過酷な目に遭わせてもこれらの映画の衝撃にはかなわない。
いうなれば日本映画とチャンイーモウは北風と太陽の相対にあり、単騎あたりまでの作風は世界的に見ても絶対の牧歌性があった。さながら西のケネスローチ東のチャンイーモウだったが、次第に商業色を濃くしている。とはいえ大作主義の大家となっても演出を失っていないのはさすがだと思う。
脳腫瘍の為に目が見えない少女と彼女の義母と結婚したいばかりに目の見えない少女の面倒をみることになった無職の中年男の話。義母の家で虐げられてきた少女にとっていつか手術代を稼いで向かいに来てくれる父が唯一の支えであり、なにも受け入れない頑なな少女がいつしか周りの人の温かさに魅かれ・・という話。ストーリーのテーマはいいのですが脚本はいまいちです。もっと義母の悪辣や父との思い出や手紙のシーンもひとひねりあった方がいいと思う。特にあの最後はない、唐突に男が交通事故に遭い、意識不明。少女はみんなの心遣いを胸に家を出るって・・・男はどうなるの?少女は目が見えないでお金もないまま出て行ってどうなるの?って・・。これが中国映画か、恐るべし。でも流石中国中から選ばれた少女。演技力抜群です。彼女の今後に注目です。おもったよりいい映画でした。本当は4あげたいけどラストで-0.5です。