狭霧の國,1990年代の怪獣映画にオマージュをささげ、着ぐるみの怪獣とミニチュアを用いた特殊撮影という旧来の特撮映画の手法を取り入れて製作された短編アニメーション。
監督は、特撮映画の造形スタッフを経て、これが商業映画の監督デビューとなる佐藤大介。 劇中に登場する怪獣ネブラの着ぐるみを、ゴジラシリーズや昭和ガメラシリーズなどの造形を手がけてきた村瀬継蔵が担当している。明治42年。
山に囲まれた九州の町に帰ってきた少年・栄二は、そこで目の見えない少女・多紀理(たきり)と出会う。そしてある霧の夜、栄二は山の湖に住む盲目の巨大な怪獣「天乃狭霧(ネブラ)」と多紀理が一緒にいる姿を目撃する。人知れず生きてきた多紀理とネブラの存在は、やがて町の人々にも知られてしまい……。
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狭霧の國評論(2)
そして、わざわざ観に行ってよかった。
明治時代の霧深い山奥、ワケ知り風な老婆、盲目で目隠しで着物の女、双子の弟、首長の化物。
映画を構成するひとつひとつの要素と、その連なりが醸し出す「ある種の世界観」が、なんていうかとても怪しくて、かつ妖しくて良かった。性的な描写や設定は全くと言っていいほどないのに、勝手に江戸川乱歩の本のようなイヤラシさを感じたりもしたし、横溝正史の本のような薄気味悪さを感じたりもした。
本作の主役である2人というか「2体の人形」は、女は目隠し布で、男は長い前髪で観客にほとんど目を見せない。たぶん生身の人間と人形がいちばん違うのは「目に宿る生命感」なんだろう。だから人形の目を隠すことによって、観客は主役2人を人間だとは思わないまでも、人形だということを少し忘れて観ることができる。
首長の巨大な化物は、怪獣特撮への思いが溢れる素晴らしい造形だったし、暴れっぷりもなかなか良かった。ただ僕の思う「怪獣」とは少し違った。僕の思う怪獣とは、「人間の日常の中に突如現れ、圧倒的な巨大さでもってその日常を破壊する異物」という存在なんだけど、本作に登場する首長の化物は、前述した「ある種の世界観」においての異物感がなく、その世界の神とか、神の使いとか、またはヒロインの怒りや呪いの具現化とか、そういうもののように感じられた。だからダメかと言ったら全然そうではなくて、その化物もとても良かった。
また機会があれば観たいなと思うし、「この先何十回でも観たい」っていうハマり方をする人もいるだろうなと思う。
佐藤大介監督と村瀬継蔵氏のトークショー付き上映で鑑賞。
人形劇と特撮怪獣映画って意外な組み合わせだなと思っていましたが、冒頭のシーンで「意外でもなんでもなくて、当然の帰結なのかもしれない」と思いました。監督自身がトークショーでも語っておられましたが、着ぐるみ怪獣は本物に見えない、ならば人間もつくりものにすれば、その世界観では着ぐるみであっても“本物”になる…なるほどなと思いました。そもそも特撮シーンはミニチュアだし、それ以外も模型になってしまえば違和感なんて生まれない…。ある意味、最終形態?
ところどころに他作品へのオマージュが散見され、ニヤニヤしながら観ていました。ですが、ストーリーはイマイチだなと思いました。怪獣映画の古典的な、と云うか、根底にあり続けているテーマだし、欠かせない部分を描いてはいましたが、あまりにもストレート過ぎて既視感がハンパ無かったです。
トークショーについて―。村瀬氏という偉大なレジェンドのお姿を間近で見られて感無量でした。ネブラの造形の話から、同日上映のバランの造形の裏話も聴けて満腹でした(笑)