脱獄十二時間
プロット
フランス
01月30日 1960 台灣上映
二十四の瞳(1954)
プロット
日本
09月14日 1954 台灣上映
二十四の瞳(1987)
プロット
日本
07月11日 1987 台灣上映
四十二番街
プロット
アメリカ
01月01日 1900 台灣上映
ラヂオの時間
プロット
日本
11月08日 1997 台灣上映
十四夜の月
プロット
インド
03月03日 2000 台灣上映
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二十四時間の情事評論(6)
ヒロシマモナムール
当時、日本で公開の時から話題騒然だったらしい
邦題にみんな納得していなかった
決して恋愛ドラマではないのだろうが
内容が重すぎてこうなったのか…
それにしても岡田英次のフランス語が「すごっ!」って思ったけど
『ベルリン天使の詩』みたいな 詩の朗読と感じるシーンの連続
芸術なんだと思う 娯楽映画ではないっしょ(^-^;
とにかく戦争は二度としてはいけない
だけどきっとまた起こる…
というくだらない人間の社会なんだから
愛に耽ってなにも考えない 悲しみさえも捨てる
ということなのかな・・・・? 哲学的ぃ( ;∀;)
フランスのイケイケ女が、日本でも不倫情事に耽る話。なんと聖地広島で。不謹慎極まりない。
こんな男女、今でも街で見たら顔を背けてしまいます。岡田英次、キサマそれでも日本男児か(笑)
これが何なのか分かるかい?って、なんとなく上から目線を感じる映画。いかにもフランスって感じ。
フランス、日本で言えば京都、ってなんか「あなたたちとは違うのよ」的イメージあり。おそらくただの偏見かとは思うのですが…
評価、高いんですね。この映画の良さが分かることが映画通への道?私には永遠に無理なような気がします。
第二次大戦後の2人の出会いから、彼らの過去の戦争の傷に触れていくことで戦争の悲惨さを表現する。
それはけだるく感傷的で孤独で、詩的でもあり芸術性を感じる。
だが分かり辛いし、悠長で退屈する部分も多い。戦争の被害者の断末魔が、彼らのいる原爆で破壊された悲惨な広島というすぐ近くからではなく、何かもっと遠い彼方から聞こえてくる。現実の戦争の悲惨さに1つ芸術という緩衝材を挟むことで、直接的な表現が少なくなり難解で抽象的な概念になってしまっている。戦後何年もたって未だに生きる屍のような気力を亡くした女を通じて、彼女の内側に残された傷だけを味わっているよう。
こういう表現方法の価値もわからないではないが、万人向けではない。ちょっと観るのに気力がいる。こんな作品もとりあえず経験として観ておいてもいいかというところ。
ただし妖しい力もある。もし自分が心に傷を負い孤独でいる時に観たのならば、登場人物と共にどっぷりと自分自身もその雰囲気に沈んでしまいそう。そんな時に観たのではなくて良かったかもしれない。
悲惨な出来事をアートというベールで包み込み、好き勝手に弄んでいるとしか思えない、かなり辛辣な表現になってしまったけれど、正直な感想をいうと、そうなってしまった。
原爆の悲惨さは、決して理解されないものなのかもしれない、そう思わざるを得ない。
そもそもこの映画を原爆を描いたものと捉えて鑑賞すること自体間違っているのかもしれない。単に広島とフランスの交わりを描いたに過ぎないわけで、そこに悲惨な出来事も当然のように絡んでくるだけに過ぎない。しかしながら、そう捉えたとしても余計に作品の価値を見いだせなくなってしまうだけのような気がする。
なかなか作品の意図が見えなかったので、評価もしづらい。