A.パーカーの最高傑作でしょう。M.ロークも完璧で脇も凄い顔ぶれの鬼気迫る迫力を感じます。映画芸術全ての要素に満足しました。特に感心するのは一見地味なT.ジョーンズの音楽です。悪魔の仕返しを暗示する冗句の様な主題曲(I cried for you. Now It's your turn to cry over me)は古典ジャズとシャンソン(恐らく巴里の屋根の下)をミックスしている様に感じます。初めは効果音と単音のピアノ、次第に古典音楽風、更に完成されたフル・バンドのジャズが流れる大団円には、悲惨なプロットに深いな可笑しみがあります。音楽が物語を皮肉に説明しています。占い師の部屋に於けるピアノ演奏が秀逸です。記憶に眠るメロディをつい弾いてしまうプロットは確かな気配りと言えます。何処かの書評で勘違いを拝見しましたが、序盤に登場する死体はハリー本人です。記憶喪失で生きていた処を殺されて物語が始まります。魔術とか推理とか流血というのは宣伝文句です。純映画的な藝術として観ないと、これ程見事は作品の核心を見失う事になります。自分自身を捜し求めるプロットと、子供や孫に出会い真実を認めざるを得ない犯人の心の動き、目を覚ます自我という大団円にも製作チームの深い計算が読み取れます。最後に魅せられるのは推理劇の意外な犯人捜しという様な低次元の答えではなく、人間に備わる虚偽そのものの真相であり、絶望的な記憶が蘇る恐怖をさりげなく丁寧に描いています。人間誰にも同じ構造心理があるとみれば、存在思想の一面が見えます。二重人格物語ではなく、人間の本性をシンプルに描いている作品です。正直な客観性を持つ観客であれば深い感銘がある筈です。光と影の見事な映像にも、巧みな小道具にもヒッチコックを思い起こさせる手腕が見えますが、物まねではない独自の完成度があります。又、ロバート・デ・ニーロの最高傑作と云っても、演技レベルにおいてそう間違っていない様に感じます。「魂は好きか」と卵の殻をむきながら問い掛ける演技には悪魔が憑依している様な凄みがあり、他の役者を当て嵌めてもこれ程見事な台詞回しは想像出来ません。原作は読んでおりませんが、原作とは無縁の優れた映画と推測します。かなり笑えますが、笑いの本質が悲劇にある創作の基本をしっかりと捉えています。こんな映画が存在する事自体驚きです。A.パーカーの絶頂期の技法は「ミシシッピー・バーニング」の完成度へと続きますが、本作が上の様に感じるのはその表現技法の完成度ゆえです。恐らく絶好調のチーム・ワークだったのでしょう。
エンゼル・ハート評論(7)
映像は原風景的イメージスケッチを随所に挟むことで
様々な情緒を喚起させる仕組み。
ちょっと音楽があえて言うと、良くない。内容が十分気味悪いのにさらに前衛的、オカルトチックな変な音楽を乗せるから、とにかく印象が暗い。
全編、巨匠タッチって感じ。
おもしろくはない。
フリが効いているようで、効いていない。
ニワトリが苦手で、死人が出るような事件を扱ったことのない私立探偵エンゼル。歌手のジョニーの交友関係を当たっていると、その証言者が死亡。いきなり殺人事件の容疑者になりそうだったので、仕事から降りたいと願い出たが報酬が魅力だった・・・次々と死者が出て、ブードゥ教の儀式と密接な関係がある。
ジョニーの行方が雲をつかむように消えてゆく。ブードゥーもキリストも嫌いというところから、もしやと思いつつ、結構エロいのでのめりこんで見てしまう。エピファニー(リサ・ボネ)という17歳黒人女性はジョニーの子。しかもすでに子持ちだ。そんな彼女とも関係を持つところなんて正に悪魔的。
結局、ジョニーはエンゼル自身だったというオチだが、サイファ(デ・ニーロ)がルシファーの化身だとか、安っぽいオチなのが気に入らない。だけど、シャーロット・ランプリングのヌードや、リサ・ボネのヌード・・・艶っぽすぎ!しかも腋毛も生やしているし、エロエロ・・・ストーリーなんてどうでもよくなってしまう。
英国からハリウッドへとやって来た職人監督アラン・パーカーの映像と音楽のマッチングが素晴らしく、ミッキー・ロークの主演作では『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』に次いで好きな作品です。
うらぶれた私立探偵役が凄く似合っていました。
画面に何度も登場する昇降するエレベーターは、光と影、白と黒とのコントラストのきいた映像と共に、言いようのない不安感を煽ります。
アラン・パーカーに続く、社会派でありながらも娯楽作品のツボを心得た若き英国人監督の登場はいつになることやら。
こっち系かとは思わなかった。気持ち悪い。探し人が記憶喪失、整形、、、これでなんとなく先が読めてしまう。血がいっぱいで、もう観たくない作品。デニーロの長い爪とゆで卵だけを記憶に留めたい。タップダンス音が恐怖音になるとは。エンドクレジットは下がる下がる。