1911年のメキシコ革命に活躍したエミリアノ・サパタの半生記で、ダリル・F・ザナック製作になる1951年作品。「怒りの葡萄」のジョン・スタインベックが脚本を書き下ろし、「欲望という名の電車」のエリア・カザンが監督した。撮影は「暗黒の恐怖」のジョー・マクドナルド、音楽は「欲望という名の電車」のアレックス・ノースの担当である。主演は「欲望という名の電車」のマーロン・ブランド、「失はれた地平線」のマーゴ、「征服への道」のジーン・ピータースで、以下「血と砂(1941)」のアンソニー・クイン、「探偵物語」のジョセフ・ワイズマン、「セールスマンの死」のミルドレッド・ダンノックらが助演する。
革命児サパタ評論(5)
カザンの作品はまだ数本しか観ていないが、これはそれほどには屈折した主人公ではない。「欲望という名の電車」のマーロン・ブランドの曲がり具合は凄かったけど、彼が演じる革命家サパタは屈折してはいない。むしろ、貧しく弱い者を想う真っ直ぐな革命家である。
権力や革命が善意から始まり、敵がいなくなれば自らが民衆の敵となる矛盾。民主主義や革命がそうした権力の矛盾とは無縁ではいられないことを映画は訴えかけている。
エリア・カザンの監督作品の中でも長らくお目にかかる機会のなかったこの映画、やっとみることができた。この頃の映画は、役者でなくて監督でみると主張とか表現とか全体的に通じているものがありとても面白くて、今の大衆受けする大ヒット映画とはまた別の楽しみ方がある。だが、一口に監督で映画をみるといっても、撮影時に監督がどういう状態にあったかによっても作品に影響を与えているようだ。それでも、エリア・カザンだ。サパタはメキシコの革命家(児?)で現政権の不満から農民より大きな支持を受けて指導者になるも、一方で昔からの同士や相棒の側近とは主義・主張などが合わなくなり徐々にひとりになっていく。映画の話ならず、この世もそうだなんて考えていたら、この世を善悪で語るのはどうなのか考えてしまう。いや語ってもいいが、立場によって善悪の基準は様々だ。やりきれないもんだな。最後の銃撃シーンは、監督の精神状態かってくらい凄かった。痛みが走った。若いマーロン・ブランドーの演技を見ながら、ああ、ところどころコルレオーネ。この役をしなかったら「ゴッドファザー」のブランドーはなかったかも知れないとほくそ笑んでしまった。とても興味深くて面白かった。
そして アンソニー・クイン
むっちゃかっこいいメキシコ革命!
エピソードを詰め込みすぎのためか、展開がスピーディーではあるが、端折りすぎ。自分の農園は自分で守らなければならないという暴力の連鎖を庶民にまで押し付ける政治。自分の兄が将軍になっても貧乏生活のため農民から搾取する姿。一体誰が悪なのか・・・外敵アメリカが一番の悪に違いないが、そこまでは言及していない。
農民たちのために優雅な暮らしなど求めないマーロン・ブランドの姿は庶民的であり好感も持てるのだが、虚しすぎる結末。憤りをどこにぶつけることなく、自衛の手段を訴えるところは、アメリカ銃社会を助長しているのかもしれない・・・