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バッド・ルーテナント 刑事とドラッグとキリスト評論(3)
裏通りのスコセッシとも言うべきか、この作品の罪と贖罪のテーマは決して不真面目なものではないどころか大変真摯なものではあるのだ。
しかしいかんせん都会の悪徳という舞台と人物と描写が、俗物を極限まで追求したものとなって不快極まる舌触りへと仕上がっている。
それもまた取り上げたテーマである、罪を贖うべき現実への真摯な取り組み故だ。
その作り手が定めた聖なる題目を真面目に追究する為の手つきであるゆえ、不快さは逃れられないものであるのだからこちらもしかとまなこを開いて目撃する覚悟が必要である。それが叶わぬ鑑賞者なら回れ右だ。
さてもそれは男の私でも思わず眉を顰めてスクリーンから顔を逸らす有様であった。
私が当時この映画を観劇した有楽町マリオン横の今はない小屋はいつになく活況を示していた。
直前に話題作となって御婦人方が多く駆けつけた『ピアノレッスン』。
そこにおける、かつてのC.ブロンソンを継ぐような「心優しき野獣」の優れた演技によって奇跡的に(失礼!)ファンが増えた我等が兄貴ハーヴェイ・カイテル。
彼を目当てに本作をよくわからず観に来たと思われるマダム方が狭い客席を多く占めていた。
本作上映早々に次々と繰り出される、カイテル演じる刑事の想定以上の不快極まる無様な自堕落無軌道描写。
その確信的毒針が放たれる度に、ご婦人方はシートから頭がのけぞるほど拒否反応を示した。
そののち、こんなモノを観る為に来た訳じゃないわとばかりに次々と退場する始末。
それはある意味この作品のあるべき姿としての監督の企みは大成功したわけだ。
しかしながら哀しくも麗しいものを観にきたつもりの御婦人方には大変気の毒ではある。
後半の刑事の戸惑いと葛藤と慟哭は、彼の俗物を極めた成れの果てだ。
それは図々しく高みから見届ける我々観客の人生態度を示唆し懺悔を促すようでもある。
これは優れた映画に度々みられる原型である。
終幕は巧妙に無慈悲に、観客の唯物自我廃液で肥大した肝臓の右脇腹をゆっくりと槍で突き刺し、自己救済へのいざないを観客自身に示す事に成功している。
「彼」は現すのみにて「我」はすでに彼の示しを予め得ていた事を漸く思い出すのだ。
監督はアベル・フェラーラ、主演のL.Tは『レザボア・ドッグス』や『ナショナル・トレジャーシリーズ』に出演したハーヴェイ・カイテル。脚本を担当したゾーイ・ルンドは皮肉にも公開された7年後に薬物中毒で亡くなってしまう。
L.Tは息子たちに対して厳格な父親像を見せているが、徐々に本当の姿を現してくる。実は刑事でありながらも薬物中毒で、刑事仲間と野球賭博をしている。喧嘩の仲裁では銃を撃ち、若い女に卑猥な行為をする。町は裕福な所もあるが主人公は闇の部分で暗躍する。友人の刑事も善意は欠けている。まさしく「悪い刑事」を体現しているのがL.Tだろう。野球ネタはハリウッド映画では定番だ。副題に野球をつけてもおかしくないぐらいくどく出てくる。あまり興味がない人からすると注意深く見聞きしないとストーリーから置いていかれそうだ。
この作品の副題に「刑事」「ドラッグ」「キリスト」の三つの言葉が付く。敬虔なキリスト教徒でありながらも神にたてつく行為でしか自分の存在を証明できない悲しき信者でもある。家族写真の上でドラッグを吸うシーンなどは胸が締め付けられる。修道女がレイプされた事件が起きると、L.Tとキリストとの対峙を予兆が始まる。L.Tは友人にも止められるほど危険な賭けを挑む。売人から薬の売り上げを回収して帰るシーン、薬物の影響と危機感からかL.Tは恐怖と孤独におぼれていく。L.Tは修道女に犯人を自分だけ見つけたら抹殺をすると語るも修道女は慈悲深くそれを断る。これはL.Tにとっては予想外の答えだった。彼は自分の弱さ暗に償いたかったのだ。しかし相手は神に仕える一人の女性でしかない。修道女が去りL.Tが振り返るとイエス・キリストが姿を現す。L.Tは懺悔と救済を求める。後ろに神、前にキリスト、もう逃げ場などない、すべてを洗いざらい吐き出す。L.Tは犯人を見つけるとこれまでにないぐらい落ち着いて野球を見ながらドラッグを吸う。しかし、犯人を捕まえずに犯人を町から追い出す。罪人の救済はキリスト教の教えにあるがもちろん事件の解決や犯罪に対する処置とは違う。しかし、最後に刑事として罰を科して、同じ罪人として許した。これは修道女が望む最善の結果でもあったのかもしれない。そんなL.Tの最後は死であるのは納得する。もはや、死は不可避だったろう。最後、少しながらもいい刑事になれたのではないだろうか。良い刑事、悪い刑事という定番のシチュエーションはあるが、自らが表裏一体のように二役するストーリーは珍しい。しかし、この程度の償いでは悪から抜け出せない。だが必要悪としての役割は果たそうとしたのではないだろうか。他人の罪を被る、まさしく、キリストの伝道と同じシチュエーションと言えるだろう。本人としては一人の人間としての救済を求めていたように見えるが、むなしいことに他人からは刑事としての側面しかL.Tを知らない。
しかし、普段は無関心な信者がここぞという時にすがる姿は正直自分にも思い当たる節がある。日本人は宗教に対してよく言えばミーハーだが、やや宗教を都合よくとらえているところがある。無宗教だが無神論ではないのは国が違えば侮辱に値するだろう。主旨と違うが、自分には宗教を見直す機会となってしまった。