それはまるで人間のように
プロット
日本
09月05日 2020 台灣上映
その日、カレーライスができるまで
プロット
日本
09月03日 2021 台灣上映
ブルーを笑えるその日まで
プロット
日本
12月09日 2023 台灣上映
触れッドペリー
プロット
日本
03月10日 2023 台灣上映
ピカソがピカソになるまで
プロット
イギリス
01月29日 2021 台灣上映
その名にちなんで
プロット
アメリカ・インド合作
12月22日 2007 台灣上映
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その手に触れるまで評論(20)
現代日本でダラシナク育った俺的価値観では、間違いなくそうなります。現代日本の社会通念上、許容されるエロさを、愛すべき「変態の国」ベルギーで愉しむ方が、原理主義に縛られて生きるより1万倍は魅力的なのに。何故に若者が狂信的な宗教に走るのかと言う問題はさておいて。
「宗教はみな正しい」はガンジーの言葉。うんうん、住んでる世界がナニモノかで隔てられている限りは、正しいって言えると思う。一つの社会、一つの町、一つの建物の中で、そんな事言う余裕ってあるんか?少なくとも、原理主義の頑なな主張は、多様化し近代化した社会にはそぐわない。
「悪魔の詩」を翻訳した五十嵐一さんが、筑波大学の校舎内で「イスラム式の殺し方」で刺殺された事件は1991年の7月。ムハンマドの生涯を題材にした小説の作者である、サルマン・ラシュディ氏・全ての翻訳者や出版者に対し、イランの最高指導者ルーホッラー・ホメイニーが死刑を宣告する「ファトワー」を発令していたため世界は戦慄。「本当に実行したのか?」。その後、トルコでは30名以上が殺害される事件も発生。ラシュディ氏本人はイギリス警察の厳重な警護を受け、その後アメリカに移住。今もご存命。
当時CIAが犯行を疑がったのは、イランの「イスラム革命防衛隊」(例のソメイマニーが司令官だった部隊)の中で対外工作・テロ活動などを行う特殊部隊「ゴドス軍」でしたが、筑波での犯行はバングラデシュからの留学生と見られています。つまりは「個人」。
預言者の「ファトワー」に従い、当時筑波大学に留学していたムスリムが犯行に及んだ(個人の見解です)。イスラム原理主義者でもなく、過激な革命思想を持つでもない、普通の留学生だったそうです。イスラム教の教義・戒律に従順に従えば、殺人も正当化されると言う恐怖を、この日本で目の当たりにした衝撃は、今も忘れられません。
映画の中で、アメッドが心酔していったのは原理主義で、イスラム教の中でも古典的であり戒律も厳しく、ストイックさが求められています(本来)。コーランで言語を覚えて来た人々に対して、近代化した社会の中で生活するため、歌でコーランを教える事を主張する女性教師は、背教者であり排除しなければならない。導師の思想は、預言者のファトワー(布告)に等しく。何ら躊躇することなく、殺害に及ぼうとするアメッド。
※※ちょっと脱線。日本のポケモンはドバイで「禁忌のファトワー」が出されています。これ、ファトワーを出した者自身が解除するまで有効なので、ドバイへ旅行した時は「ポケモン禁止」ですw 狂信者に刺殺されてもドバイでは犯罪になりません。いや、大問題にはなると思うけど、犯人は釈放されます。脱線終了※※
犯行には失敗し逮捕。少年院に収監されるも、ファトワー実行の意思には変わりがなく。歯ブラシを研ぎ、鋭利なピックに加工する様には、狂気しか感じない。彼は少年院を脱走し、女教師殺害を実行しようとするが失敗。最終的に彼は、ファトワーの呪いを、おそらく自分自身の意思で解除してお終い。
カンヌ常連のジャン=ピエール・ダルデンヌとリュック・ダルエンヌ兄弟は「変態の国ベルギー」(俺的には最高の褒め言葉ですw)の映画人。彼らが描きたかったのは「人はどうすれば狂信的な思想から逃れることができるのか」だったそうです。
濃密な84分の物語には3人の女性が登場します。「飲んだくれ」の母親も、欧州化したムスリムであるイネス先生も背教者。13歳のアメッドのファーストキスの相手となったルイーズは異教徒。この3人が、ラストの数分間でアメッドの上を通り過ぎます。
キスをしてしまったルイーズに「改宗」を求めるも拒絶されたアメッドは罪人となってしまう。自らの罪を少しでも取り返すためにイネス先生殺害に向かうアメッド。屋根から背中向けに地面に叩きつけられて生命の危機を感じたアメッドは「ママ」とつぶやいた後、凶器のつもりで手にしていた鉤を壁に打ち付けて音を出し、イネス先生に助けを求める。彼を抱き起そうとしたイネス先生を刺すことも可能だったが、すでに彼の中からはファトワー実行の意思は消えていた。
ダルエンヌ兄弟は、いくつかの可能性を示唆しますが、明確な答えを示さずにシャッターを下ろしました。ルイーズは「恋愛感情」の象徴。「ママ」は「無償の愛」。イネス先生は「赦し」。13歳のアメッドにディープキスしちゃうルイーズのエロさには、さすが変態の国!って思わされます。おれならこの時点で、ムスリム止めちゃおうかなぁ、ってなりそうだけどねw
カンヌ常連は伊達じゃないよなぁ、って思わされる、アンチ・エンターテイメント(硬派)な問題提起型の映画でした。その中でも、「変化と救い」のあるところが、ダルデンヌらしくて大好き。
良かった。とっても。
この映画の主人公の少年はいたってどこにでもいそうな少年だ。たまたまイスラム教指導者が過激思想の持ち主だったので、本人も感化されてしまう。これは、一度まとってしまった皮を剥がして別の皮に付け替える過程を追いかけた作品と言えるかもしれない。
それは容易なことではない。まとった皮も含めて自分という人間だ。自分の一部を否定することは誰にとっても難しいこと。周囲の助けなくしてはそれは達成できないことなのだ。
まるで異なる思想を身に着けてしまった人々とどう向き合うのか、今の世界のどこであっても重大な問題を本作は描いている。
ゲーム好きの少年(中学生くらい?)が、死んだ従兄や、導師の過激な思想に感化され、イスラム原理主義者として洗脳されていく。
挙句、学校の先生をイスラムの敵だと考えはじめて、抹殺するためにナイフを持って学校へ向かう……
最後まで救いも答えも見つからないが、それが現実ではある。
カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した作品とのことだが、実に納得。