イタリアの巨匠ルキノ・ビスコンティの代表作で、第16回カンヌ国際映画祭で最高賞(グランプリ)に輝いたドラマ。日本では1964年、短縮された英語版で初公開された後、81年にイタリア語のオリジナル完全版が公開されたがプリントの状態は悪かった。そのイタリア語完全版を、撮影監督のジュゼッペ・ロトゥンノ監修のもと復元させたのが「イタリア語・完全復元版」で、2004年に公開された。16年、ビスコンティ監督の生誕110周年、没後40年を記念した特集上映「ヴィスコンティと美しき男たち
アラン・ドロンとヘルムート・バーガー」では「山猫 4K修復版」として、「イタリア語・完全復元版」を初の4K映像で劇場公開。19年には「4K修復版」が35ミリプリントとデジタルで同時上映。統一戦争に揺れる1860年のイタリア。シチリア島を長年に渡って統治してきた名門サリーナ公爵家にも革命の波が押し寄せる。貴族社会の終焉を感じながらも優雅な暮らしを続ける公爵は一家を連れて避暑地へと向かうが、革命軍の闘士となった公爵の甥タンクレディが、新興ブルジョワジーの娘アンジェリカと恋に落ちてしまう。
山猫評論(14)
何が起きているのかわからない。ろくに説明がない。どうも戦争が迫っているらしい。だけど登場人物側がどのような立場で、それに対してどのような立場の勢力がいて、どのような利害関係があるのかわからない。ただ将来を左右する岐路にいるのかなというのがわかる程度で、具体的なことが描写されない。いきなり戦っているけれど、背景を理解していないから、何一つのめり込めず、遠い昔にどこかの誰かが誰かと戦っているんだなと遠い目で見てしまう。
戦いが終わってからも似たり寄ったりで、タンクレディは遠い所で何をしたいのか何をやってきたのかを部屋でちょっと語るだけで、実際の行動は殆ど示されない。物語の躍動感がなく、色々と大変な時代らしいとはいえ日常生活が延々と描写されるだけ。
そんな場面が変わって舞踏会になると実に華があった。古い伝統のお屋敷で美男美女が舞い踊る姿は豪華で美しい。古いために映像の色は鮮明とは言い難いが、延々と続く舞踏会こそこの映画の見せ場で、ここのみで見る価値がある。点数はここにつける。
時代が変わり貴族の時代でもなくなり、侯爵は貴族階級と共に時代に置き去りにされる。そして新しい時代には新興の上流階級が支配階級となっていく。そのような雰囲気はわかる。
だが同じビスコンティ監督の『ベニスの死す』でもそうだが、この監督は設定と物語の展開の描写が情報不足で、雰囲気ばかりを作ることに集中しすぎている。ビスコンティは貴族の出身らしく城で育ったそうだが、貴族の描き方は良く分かっているように見えた。だが物語の描き方が駄目。伝わってこないしのめり込めない。今まで観た中で、ビスコンティ監督作品で面白いと思ったものがない。本作も久しぶりに観なおしてみたが、やはりこの名監督は自分の感性には合わないようだ。
アラン・ドロンはイタリア語が喋れるのかと思ったら、こちらは吹替らしい。バート・ランカスターは当然吹替。
社会だけでなく人間もまた変革されていく
サリーナ公爵とセダーラは支配階級の交代と貴族社会の終焉を
サリーナ公爵とタンクレデイは老若の世代交代を
それぞれの人物を通して描いています
このようにさまざまな切り口で、こういった洋の東西、古今を問わない人類不変のテーマを幾重にも重ね合わせています
最初の内こそ事情を飲み込めずに退屈してしまうかも知れません
しかし次第にその不変のテーマの重ね合わせに気付きだしてからは、いつしか3時間を超える長さも気にならないくらいに没入してしまうのです
イタリアの近世史に詳しく無くともテーマは誰にも理解でき共感できることなのです
忠実に再現されたであろう1860年のシチリアに於ける貴族社会の実相が見所でしょう
後半に長く続く舞踏会のシーンはことに有名です
もちろん日本人にはそれがどのくらい忠実であるのかは判断つきません
しかし21世紀に生きる日本人であっても幕末の頃を舞台にした映画の時代考証の忠実さはある程度は肌感覚で分かります
それと同じように本物の貴族である監督が本物を再現して見せているのは、映像の中の空気からハッキリと伝わってきます
見たことのあるような西洋絵画のそのままの光と色彩が画面にあります
絵画的なのではなく、西洋絵画が如何に現実に写実的であったのかの証明ですらあります
物語はまさに同じ時代の日本でもあったような物語です
大政奉還に揺れる地方の小藩の殿様の物語です
例えるならこうでしょう
御維新は時代の流れと諦めつつも家名を残す為には富裕な商家から嫁を迎えるのも当然と考えています
うまく立ち回って新政府軍に連なっている甥は、これからはこれくらいの才覚がなければと頼もしく見ます
野心ある若い彼にはアンジェリカのような強い女で無くては連れ添えない、コンチェッタなような古い時代のままに育った娘では足手まといになると
そして鏡に写る自分に老いを感じ
洋装、断髪は自分にはできないと知る
山猫の時代は去ったと主人公は最後に述べます
同じように21世紀の日本も時代は変わり令和となりました
山猫と獅子は去り、ジャッカルと羊の世の中なのかも知れません
古い世代の人々からは舞踏会の部屋で騒ぐ娘達を猿の様だと冷たい目で見られているのかも知れません
しかし新しい世代はタンクレデイの世代なのです
古い人間は夜道を一人歩いて退場していくのみなのです
令和時代の始まりにこそ観ておくべき映画でしょう
イタリア統一運動の最中、没落を予感するシチリア貴族や時代の波に乗る若者達を描いた作品。
映像が大変美しいです。
威厳に溢れ、家柄、しきたり、体裁、マナーを重んじる貴族の鑑のようなSalina公爵と、彼の甥で金遣いの荒いopportunistの美男子Tancrediが共に目を奪われるのは、成金で野暮なSedaraの娘Angelicaの美貌。品格も教養もない彼女ですが、魔性の魅力で貴族の心を鷲掴みし、封建主義を根底から覆す新しい時代の象徴のようでした。
「山猫や獅子が支配する時代は去り、ジャッカルや羊が取って代わる」
山猫というとピンと来ないのですが、ocelotやleopardということなら、確かに優雅で美しい生き物です。絶滅危惧種もいますね。
山猫は貴族、獅子は王族?
ジャッカルはSedaraやAngelicaといったブルジョワジー、羊はその他大勢のただ盲目的に従う民衆…という意味でしょうか。
山猫も獅子もジャッカルも羊も、みんな平等になる未来が来ると…。
紀元前よりあちらこちらから攻め込まれ、落ち着く暇のなかったシチリア。永い眠りと忘却への渇望、官能なる停滞すなわち死への憧れというのは、そういう歴史的背景から来るのだと知りました。
「現状を維持したければ変わらねばならない」
「体制全体を保つために一部の変化が必要なのだ」
「人を導きたい者に必須の己を欺く能力」
この辺の要素と作品の時代背景が、政治家ファンを惹きつけるのでしょうかね。
自分は行かざるを得なくて行ったことしかないのですが、訪伊の度に、苦手意識がどんどん増すのです(>_<)。勿論良い人も沢山いるのですが…、時折直面する非合理性等に絶句してしまいます。正直個人的には、芸術や美的センスへの尊敬だけで克服出来るものではないです。
このイタリア映画で意外にも自分の気持ちに近い台詞があって衝撃でした。
「シチリアの人間は改善を望まない。自分自身を完璧だと思っているからだ。貧困よりも虚栄心にこだわる。」
"They never want to improve. They think themselves perfect. Their vanity is greater than their misery."
そうこれ!
(高慢と見栄っ張りは同義ではないけど、シチリアに限らず)プライドの高さに見合う、生活水準と教養が伴っていない!…人に当たる確率が異様に高い…気がする…。
彼らの完璧って何なんだろ。
「公爵様のお通〜り〜」的な描写が、江戸時代みたいでした(^_^;)。砂埃にまみれながらも儀式的接待に耐える公爵一家。馬車よりエッサホイサの籠のほうが、遅い分?汚れなさそうだなぁと思いました。
Burt Lancasterの憂いを帯びた気品ある公爵姿が素敵でした。Tancrediの包帯の位置が毎回適当で残念。公爵夫人に続いて欠伸する大きなワンちゃんが良かった。
ストーリーのセンスがないのか、面白くする気がないのか、退屈な場面がだらだら続いて苦痛でしかたなく、早く終わってほしいという願いのみで最後まで見た。お城みたいな建物やきれいな衣装に興味があれば楽しいのかもしれない。
やたらと食事をしてパーティばかりしていた。
山猫は何かの比喩なのだろうと思いながら見ていて、アラン・ドロンの彼女が現れていかにも山猫だと思ったら、バート・ランカスターが自らのことを「かつては山猫みたいだった」と語ったので驚いた。
小沢一郎が一番好きな映画とのことで気になっていたのだが、どこが好きなのだろう。
最後のワルツは決して相いれないもの同士の最初で最後の会釈のようなものか
カルディナーレが全盛期の美しさで 私は
ひそかに 主役の座を奪ったのでは… と思っている